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2016年3月6日日曜日

ビル・エヴァンスに関する本

結局、何のかんの言っても、究極に好きなのはビル・エヴァンスなのかなあ、という気もします。

音楽を聴きながら目が寂しい(?)ときは、本を読んでしまうのですが、関係ない文章を読むとどうしてもそちらに気がいってしまうので、聴いている音楽に関係する本を読むことが多いです。

そんなときに手に取ることの多い、ビル・エヴァンスについての本3冊です。

  「ビル・エヴァンス - ジャズ・ピアニストの肖像」
 (ピーター・ペッティンガー、相川京子訳、水声社)

 「ビル・エヴァンス - ミュージカル・バイオグラフィー」
 (キース・シャドウィック、湯浅恵子訳、シンコー・ミュージック)

 「ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄」
 (中山康樹、 河出書房新社)



以前は、理屈はいいから音楽を聴けばいいんだ、とばかりにつっぱっていて、この類の本を遠ざけていたのですが、読んでみると、今までさして注意してなかった作品の背景や魅力、意味などがわかり、新鮮な気持ちで聴き直すことができるような気もします。

ということで、今日は、ビル・エヴァンスとジョージ・ラッセルが共演したアルバムを聴いていました。

2016年2月22日月曜日

岩合光昭「ふるさとのねこ」、「コトラ、母になる - 津軽のネコの四季物語」

ネコの日、ということで・・・(笑)

もともと、ネコ好きの母親へのプレゼントを物色していて見つけたのですが、「ネコ」で、「津軽」という、私にとっては大好物の2つが揃っていて、しかも、撮影したのが岩合さん、ということで、自分の分も勇んで購入しました(笑) 

著者が1年ほど、四季の折々に津軽を訪れて撮影した記録で、「ふるさとのねこ」のほうが写真集、「コトラ、母になる」のほうが写真と文を交えた本です。

最初に、開いた瞬間、思わず、ずるい、とつぶやいてしまいました。8年間、弘前に住んでいたのですが、道を歩いていてもあまりネコに会わない街で、冬は寒いので、みんなイエネコなのかなあ、と、思っていて、弘前公園も、最勝院も、通算で 500 回くらいは行ったと思うのですが(笑)、ネコに出会えることはめったになかったのでした。それが、岩合さんの手にかかると、しっかり、桜や雪の弘前公園のネコや、最勝院の塀の屋根にのっかっているネコが写っています。さすがに、そこに住んでいる自由ネコだけではなく、ご近所で飼っているネコの協力を仰いだようですが、それでも、ご近所にいるネコすら見つけられなかった私としては、ちょっと悔しい思いがします(笑)

その他、ねぷた絵に戯れるネコ、漁港のネコ、と、津軽の風物の中で暮らすネコたちの写真に見とれてしまいますが、なんといっても、これらの白眉は、1年間少しをかけて撮影した、リンゴ農家で暮らすネコ一族の写真でしょう。母親になりたての「コトラ」と、自然の中で成長する彼女の子どもたちを中心とする大所帯のネコたちと、それを見守る飼い主の方々の1年が、生き生きと伝わってきます。

もちろん、構図や演出は十分に考えられているのでしょうが、その中でモデルになるネコたちは皆、自然体で、目も、表情も死んでいません。待ちに待ったであろう決定的瞬間を活写した一枚一枚に何となくネコの気持ちが現れているようで、心が和みます。

背景となる津軽の風景も、私にとっては親しみ深いもので(笑)、岩木山の見え方から、だいたいあの辺かなあ、と想像してみたりするのですが(笑)、そうしていると、あの地の、風の肌触りや、光の感じ、雪を踏みしめる感触などを、身体的、とも言いたいほど、ふっと思い出したような気がしました。 

春のよろこび、夏の昂ぶり、秋の静けさ、冬の厳しさ・・・、と繰り返される、重みのある時間と人の記憶とともに、その中で過ごす、私が会うことのできなかったネコたちを思い、写真を眺めていました。

本文とともに印象深かったのが、著者による「エピローグ」でした。1年4か月ほど、折に触れて訪れていた津軽での仕事が終わりを迎え、羽田に降りたった時のことが次のように書かれていました。
 僕は・・・・・・、動けない、動けなかった。どちらかというとせっかちな僕は、いつもならすぐに荷物を取り出して出口に向かう。なのに、動けなかった。飛行機が東京に着陸した瞬間、「オワッタ」と頭の中で響いた。「ツガルガオワッタ」と。心臓がドクンと跳ねたような気がした。胸がしめつけられる。そして、全身の力が抜けた・・・・・・。
 余りに大きな喪失感だった、気づいたのだ、ネコもヒトも、空も大地も風も匂いも、たとえまた行くことができたとしても、もう二度と共に過ごすことはないのだと。もう二度とあの時間は過ごせないことを。引き返したい衝動に駆られる。いい歳をしてどうかしていると思う。自分に呆然とする。
自分と重ね合わせるのは僭越ではあるのですが、2年前、青森を離れたときのことをちょっと思い出しました。くっきりと色付けされた手ごたえのある時間と、その中で暮らす人たち(ネコたちも?)が、津軽という場所にそういう人懐かしい思いを抱かせるのだろうなあ、と。

2016年2月20日土曜日

雨に椿の

かなり激しい雨が降っていました。公園を通り過ぎて椿の花を見た時、不意に
 雨に椿の花が堕ちた
という一節が浮かんで、その後、
鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
と、続きの一節も思い浮かんで、何だっけ、これ? と考え込んで、ようやく思い出しました。


   Enfance finie
 海の向こうに島が・・・・・・、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。

   約束はみんな壊れたね。

   海には雲が、ね、雲には地球が映つてゐるね。

   空には階段があるね。

 今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣(わか)れよう。床に私の足跡が、足跡に微かな塵が・・・・・・、ああ哀れな私よ、

   僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。


初めてこの詩を知ったのが中学生の頃で、何を言っているのかわからないのに、例えていうならば、ルネ・マグリットの絵みたいな情景が心に浮かんで、妙に胸が締め付けられるような感じがしたことを思い出しました。

どこか、頭の片隅にでも、そういう記憶の断片が残っていたんだなあ、と、不思議な気持ちになりました。

2016年2月18日木曜日

A.G.ピント  「ショーロはこうして誕生した - 忘れられたリオのショローンたち」

ブラジルの音楽が好きです、と、言ったりもするのですが、ブラジル音楽はあまりに多岐に渡っていて、好んで聴くのは、そのうちの、少しのボサ・ノヴァやフュージョン、ブラジリアン・ジャズ等を除けば、ショーロという分野です。古くからあるオーソドックスなスタイルで、標準的な演奏形態は、中低音をギター、旋律をフルート、カバキーニョ(スチール弦を張ったウクレレのような楽器)、バンドリン(マンドリンのような楽器)、クラリネット、サックスなど、打楽器はバンディロ(タンバリン)が担当する、という、いたってシンプルで地味なもので、サンバなどから連想されるような激しいリズムはないのですが、親しみやすくも奥が深いようで、長年聴いても飽きませんし、ちょっとシーンに元気がなくなってきたかなあ、という頃には、若いミュージシャンが現れて新たな展開が起き、その歴史が続いているようです。

とはいうものの、日本ではマイナーな音楽であるのも事実で、私の周囲には結構音楽好きな方々がいるのですが、それでも、ブラジルのショーロって音楽が好きなんだけど、という話をしたときに、その存在を知っていた方は今までの通算で2人だけでした(笑) そのショーロについての本が出た、というので、かなり驚いて購入しました(笑)

書名から、考証的、研究的な本かと思ったらそうではなく、 1936 年に、当時の老ショーロ奏者だった著者が口述筆記した、彼と交流のあったミュージシャンについての思い出、という回顧録でした。 有効な例えになるかわかりませんが、ジャズで言うと、ベース奏者のビル・クロウが、モダン・ジャズが生き生きとしていた時代の実に愉快なメモアール「さよならバードランド」「ジャズ・アネクドーツ」 を書いていたのですが、ちょうど、それの、ブラジル音楽 1936 年度版、みたいな・・・、と、いっても、やはり伝わりにくいですね(笑)

とにかく沢山(おそらく 300 人くらい)の、ショローン(ショーロ奏者)や彼らを援助、庇護した人たちの名前が出てきます。伝説的な名人がまだ現役で、今では、「ブラジル音楽の父」とさえいわれているピシンギーニャが、まだ、若手から中堅になりかけくらいの時に記述されたもので、その時代から、作曲や演奏の録音によって名前が残ったのは、ほんの一握りだと思いますし(私が知っている奏者は 10 人くらいでした)、どころか、当時、プロとして生計をたてられる人も多くなく、大半は、郵便局、消防署、商会などに勤める傍ら、音楽活動をしていたようです。それでも、演奏する場所はたくさんあったようで、夜な夜な、どこかで開かれたパーティーに集い、飲んで、食べて、演奏していた様子がうかがえます。こんなに、浮かれ騒いでいて、この人たち、昼間の仕事は大丈夫だったのか、と不思議になったりもします。現に、何人かは、職場をクビになってしまった、なんて記述も見られますが(笑) それでも、みんなが楽しく過ごしていたから、幸福な音楽が生まれたのだろうなあ、と、思ったりします。

いくら長年にわたったからとはいえ、これだけの数の関係者との付き合いがあった著者には驚いてしまいますが、滅多に悪口を言わず、例えば、演奏が下手な人に対しても、性格はよかった、みたいなフォローを入れたりするところ、人柄によるところもあるのだろうな、ともうかがえます。ときどき、感傷的で、ちょっと気取った言い回しもあるのですが、そういうのも悪い感じはしませんでした。といっても、あとがきで述べられた翻訳における苦労を読むと、この辺の感じのよさは、訳者のおかげなのかもしれませんが(笑)

あの音楽は、こういう雰囲気の中で育ってきたのか、ということが伝わってくる一冊でした。

2016年1月5日火曜日

調子を取り戻そうとする

神戸の超幾何系ワークショップに参加しようか迷っていたのですが、行ったとすると帰京直後に講義やセミナーが山積することになってしまってかなりきついのが目に見えているので、残念ながら断念しました。エア・ポケットのように空いた予定を利用して、今日は、ごろごろしていた帰省中の生活から調子を取り戻すべく、外出することにしました。年末にラファエル前派展を見たので、他に何か開催している展覧会があるか調べると、上野の森美術館で肉筆浮世絵の展覧会があったので行ってみることにしました。

シカゴの資産家であるロジャー・ウェストンという方のコレクションだそうです。菱川師宣から河鍋暁斎の時代まで、浮世絵の全ての時代を網羅する、質、量ともに充実した、美人画を中心とした肉筆の作品が出展されていました。 

月並みですが、思っていたより浮世絵を知らなかったのだなあ、と感じました。高校の日本史の授業で出てくるような、師宣、歌麿、写楽、北斎といったあたりの代表的な絵は見当がつくのですが、それらの画家がどのように影響して、どういう流れを作っていたのか、初めて知ったことが多かったです。また、浮世絵=版画、という先入観があったせいか、絹に描かれた肉筆画の質感はとても新鮮でした。

展覧会を見終わったあとは、神保町まで歩くことにし、途中、湯島天神に寄って、去年のお礼参りと初詣をしました。

神保町では、池袋の古本屋で 5000 円の値段がついていて驚いたちくま学芸文庫の「ニーダム・コレクション」 の状態のよいものが1500 円で手に入ったほか、2冊ほど探していた本が見つかり、新年早々、幸先のよい(?)スタートになりました(笑) といいつつ、半年ほど前に古本で購入した、ホグベンの「100 万人の数学」が新訳で出版されていたのは若干悔しかったのですが(笑)

帰宅して、昨年のメモを見ると、1年間で購入した本が(境界がはっきりしないので、仕事と趣味の分をまとめると) 110 冊ほどあったようです。1年間で読んだのは、前の年から積読していた本も含めて 30 数冊だったので、読んでいない本が膨大に蓄積されてしまいました。ちなみに、購入した CD は 80 枚くらいで、見に行った展覧会は 17 回、聴きにいったライブやコンサートは 5 回だったようで、冷静になってみると、随分、無駄遣いしているなあ、という気もします(笑)

2015年5月12日火曜日

心に留める

一昨日から、時間ができると、長田弘さんの詩集を開いています。いくつかの、印象深い言葉が目にとまります。コルクボードにピンどめするように、心に留めておこうと思います。


  それは

それは窓に射す日の光のなかにある。
それはキンモクセイの木の影のなかにある。
それは日々にありふれたもののなかにある。
Tシャツやブルージーンズのなかにある。
それは広告がけっして語らない言葉、
嘘になるので口にしない言葉のなかにある。
それは予定のないカレンダーのなかにある。
時計の音が聴こえるような時間のなかにある。
誰のものでもないじぶんの一日のなかにある。
それは、たとえば、ちいさなころ読んだ
「シャーロットのおくりもの」のなかにある。
あるいは、リンダ・ロンシュタットの
スペイン語のうつくしい歌のなかにもある。
名づけられないものが、そのなかにある。
それが何か、いえないものがある。

 (『心の中に持っている問題』   所収)



  Passing By

結局、わずかなものだ。
静けさ、身をつつむだけの。
率直さ、親指ほどの。
日が暮れる。一日が終わる。

大葉をのせた笊豆腐で、
冷酒を飲む。
あるいは、ブルーチーズを切り、
白ぶどう酒を飲む。

言葉を不用意に信じない。
泣き言は言葉とはちがう。
神を知らないので、
神にむかっては祈らない。

テーブルの上の猫。
黙って聴く音楽。
キム・カシュカシャンのヴィオラで、
ヒンデミットのヴィオラ・ソナタを聴く。

大きなぶなの木。
フクロウの影。
必要なだけの孤独。
澄んだ空気、せめてもの。

笑う。怒る。悲しむ。
それだけしか、
人生の礼儀は知らない。
ふりをする人間がきらいだ。

忘却の練習をしよう。
むかし、賢い人はそう言った。
何のために?
魂をまもるために。

結局、わずかなものだ。
いま、ここに在るという
感覚が、すべてだ。
どこにも秘密なんてない。

ひとは死ぬ。
赤ん坊が生まれる。
ひとの歴史は、それだけだ。
そうやって、この百年が過ぎてゆくのだ。

何事もなかったかのように。

『一日の終わりの詩集』  所収)



 おやすみなさい - セレナーデ

おやすみなさい森の木々
おやすみなさい青い闇
おやすみなさいたましいたち
おやすみなさい沼の水
おやすみなさいアオガエル
おやすみなさい向日葵の花
おやすみなさい欅の木
おやすみなさいキャベツ畑
おやすみなさい遠くつづく山竝(やまなみ)
おやすみなさいフクロウが啼いている
おやすみなさい悲しみを知る人
おやすみなさい子どもたち
おやすみなさい猫と犬
おやすみなさい羊を数えて
おやすみなさい希望を数えて
おやすみなさい桃畑
おやすみなさいカシオペア
おやすみなさい天つ風
おやすみなさい私たちは一人ではない
おやすみなさい朝(あした)まで

 (『奇跡 - ミラクル』 所収)


2015年5月10日日曜日

誠実な言葉としての詩

珍しく、何となくテレビをつけてみたら、NHKのニュースで、長田弘さんがお亡くなりになったとの報道が目に入りました。お身体の調子が悪かったのは、何かで読んではいたのですが、いざ訃報に接し、30 年近く、考えたり、感じたりする力をいただいた方がいなくなってしまったことを実感すると、直接お目にかかったわけでもない一介の読者に過ぎないにもかかわらず、意外なほど深い喪失感にとらわれてしまいました。

最近出版された「全詩集」が書店の本棚にあるのを見たとき、今までの詩集は全部持っているし、買わなくてもいいか、と、思っていたのですが、もしかして、これが総決算となるかもしれないことをご本人もお考えになっていたのかしらん、と、気になってきたので、やはり、手に入れておこうかと思ったりもしています。

高校生の頃、書店で、何気なく、「ねこに未来はない」を手にとったのが始まりでした。当時から猫好きだったことと、好きな作家の辻邦生さんの推薦文にひかれたことが理由だったと思います。すっかり魅了されて、続いて、「猫がゆく - サラダの日々」を読んで、さらに感銘を受け、「深呼吸の必要」で完全にノックアウトされました。新しい本を見かけるたびに手に入れるようになり、その言葉に励まされてきました。

何度もブログに書いたので、もはや、同じ言葉しか出てこないのですが、長田弘さんの書くものに触れて、詩というのは、言葉のアクロバットやマジックではなく、書き手が自己に誠実であろうとする営為なのだ、ということを教えられました。 大切な、ものの見方、考え方、感じ方を得ることができました。そして、稀代の読み手でもあった彼の文章から、私にとってかけがえのないものとなる多くの詩人、作家を知りました。それらを思うと、長田弘という詩人に出会えた幸運を感謝するしかありません。 

私にとっても、世の中全体にとっても、これから、もっと必要とされるであろう言葉が、これ以上生まれないのは寂しいことですが、残された彼の詩を、大切に心に留めておきたいと思います。

「猫がゆく」の主人公の、サラダの日々を暮らすジュジュという女の子が口ずさんでいたのがこの歌です。バックの演奏はアート・アンサンブル・オブ・シカゴです。

2015年4月13日月曜日

庄野潤三 「鳥の水浴び」

久しぶりに庄野潤三の小説が文庫化されたので、早速購入しました。

個人的には、著者の、特に後期の作品のファンなので、今回も、うーん、やはり、自分にはこういう気持ちが足りないのだ、こういう風に生活しなければなあ、と、思うのですが。

もう、何度もこの方の小説の感想をブログに書いたので、ほとんど、同じようなことしか書けません。そのキャリアの初期、「プールサイド小景」、「静物」のような作品で、平凡な家庭生活のなかに潜む不安を整然とした文体で書いていた著者が、「夕べの雲」あたりから、ひたすらに平和で幸福な家庭の日常を、穏やかな筆致で描くようになってゆきます。徐々に、1年の明け暮れを一つの作品とする創作のペースができてゆき、毎日の暮らしを書き継ぐうちに、著者夫婦と子供たちの一家五人の生活から、子供たちが結婚し、それぞれ一家を構えて、著者たちは夫婦2人暮らしとなり、孫ができ、その孫も結婚をして、ひ孫ができ、・・ という長い長い時間のこの家族の年代記が形作られてゆきます。

「鳥の水浴び」は、ちょうど、長女の息子さんが結婚する1年間の、著者夫婦の暮らしを描いた作品です。特別なものや、慌ただしさや苛立ちや、というものは一切現れません。著者夫婦は、毎日、庭にやってくる小鳥を見つめ、花が咲くのを喜び、著者は散歩に出かけ、奥様はピアノのおけいこに行き、夕食後には著者がハーモニカを吹いて奥様ががそれに合わせて歌う、ときどき娘・息子の一家が訪ねてきたり、ご近所の人たちと語らったりして、大きなイベントは、毎年恒例の大阪へのお墓参りと、時々の宝塚観劇、という、至っておだやかな1年間が描かれています。

作品を通じて、家族の道行きに付き合ってきたつもりになっているので、あの娘さんのお子さんが結婚した時期のことなのか、と、思って、著者の長女が結婚する直前の時期を描いた「絵合わせ」という作品も読み返してみました。今更ながら気づいたのですが、そのころは家族をモデルにしながらも、登場人物の名前は変えてあったりして、「小説」として、ある種の構成は行われていたのでした。ところが、今回の「鳥の水浴び」に至るまでのあいだ、ある意味、より無造作になっていて、家族やご近所の人たちは、おそらく本名で(?)登場するようになるし、子供や孫から来た手紙は抜き書きのように引用されるしで、一見、プロットの構成に意を用いているようには見えなくなります。雑誌に連載されたから、ということもあるのかもしれませんが、登場人物の説明なども繰り返しが多くなっていて、文章も、心の襞を表そうと技巧を凝らすのではなく、暮らしの何気ない出来事をあっさりと描写しては、「よかった」、「うれしい」、「おいしかった」、「ありがとう」といって締めくくる、というパターンが頻出しています。でも、なぜか、その「うれしさ」、「ありがたさ」は、細々と説明される以上に、確かな重みをもって伝わってきます。 

庭の花を愛で、小鳥を慈しむ明け暮れでも、時間は確かに流れています。いつも、畑で育てた薔薇を持ってきてくれた「清水さんの奥さん」はお亡くなりになってしまい、著者の奥様の作った「かきまぜ」(まぜずし)を喜んでいた清水さんの旦那さんがその畑を引き継いでいます。散歩のときによく出会った巨人軍のピッチングコーチだった「藤城さん」は、この年は韓国のプロ野球チームのコーチになっています。小学生の頃、著者の奥様と一緒にピアノのお稽古に通っていた「有美ちゃん」は、中学に入り、部活が忙しくなって、おけいこをやめてしまっています。著者の家族でも、以前の作品に小さな子供として登場していたお孫さんたちが成長していることに、ふと、気づいたりします。

だから、この年に咲く花も、今日、庭に訪れる小鳥たちも、本当は、そのとき1度だけの貴重なもので、「繰り返し」と思うのは、何か(たぶん、大切なこと)を見過ごしているのでしょう。ことさらな技巧にこだわるのではなく、気に留めなければ忘れられて消えてしまうような日々の出来事から丹念に喜びを選り分け、幸福であろうとする強い意志によって形作られた暖かな記憶が、著者の作品なのだと思います。

2015年1月19日月曜日

20 年後

ちょっと、気持ちが草臥れたなあ、と思って、長田弘さんの詩集を一抱え持ってきて眺めていると、

考えることが快楽でない人は
考えに考えることをよしと考えない。 
考えることが快楽でない人は
ためらわない、すぐに性根を問題にする。 
考えることが快楽でない人は
精神の字にかならず(こころ)とルビを振る。 
考えることが快楽でない人は
考えない。考えさせない。疑わない。

とか、

力ずくで、ただ無理じいすること、ではない。
強制は、 
国中の人間の半分を馬鹿にし、
残りの半分を偽善者にしてしまうことである。 
トマス・ジェファーソンの
辞書によれば。
とか、

そうすべきだと言い切る断言は
正しいとおもえば、いつでも正しい。
誤ることなどありえないという
正しい理由をいつでももっているのだ。 
だが、すべきでないことはしないことを択べ
すべきこととすべきでないことのあいだでは。 
そうすべきではない不正な行為も、
正しいとおもえば、いつでも正しい。
誤ることなどありえないという
正しい理由をいつでももっているのだ

とか、
気をつけたほうがいいのだ、
何事もきっぱりと語るひとには。 
です。であります。なのであります。
語尾ばかりをきっぱりと言い切り、 
本当は何も語ろうとしない。
ひとは何をきっぱりと語れるのか? 
語るべきことをもつひとは、言葉を
探しながら、むしろためらいつつ語る。

などという詩句が目に入ってきました。

1994 年に出版された詩集の中のことばなのですが、20 年後の今に切実に響きます。こういう世の中になるのがわかっていたのかなあ、とさえ思ってしまいます。

2014年12月27日土曜日

回復したので皮肉

ようやく回復し、今日は自宅を掃除しました。 

オーバーヒートしている間は難しい本は読めないのですが、かといってつまらない本も読む気にならないので、山本周五郎、司馬遼太郎、池波正太郎といった方々の時代小説を読むことが多くなります。今回、朦朧としながら本棚に手を伸ばしたとき、最初に触れたのがこの本でした。本当に久しぶりだったのですが、ちょっと目を通すとついつい惹き込まれ、結局、文庫本で8冊分、ほとんど全部を読み返してしまいました(笑)

坂本竜馬のイメージが決定付けられ、もてはやされているのはこの作品によるものでしょう。後続した竜馬関係の作品のほとんど全てが影響を受けていて、さらに、これを超えたものは無いといっても過言ではないと思えてしまうほどです(笑)

それにしても、竜馬自身が、先人の物真似はくだらん、と、言っていたようなのに、我こそは平成の竜馬、と名乗りたがる人があんなにいるのは不思議です。

2014年12月2日火曜日

親しみのある言葉

一晩ぐっすり寝たら回復しました(笑) 

この前にボッティチェリの絵を見たのがきっかけで、「春の戴冠」を本棚から取り出し、読み出したら止まらなくなり、その流れで、辻邦生さんの「西行花伝」「ある生涯の七つの場所」などを読み返していました。

最近は他のジャンルの読書が多いのですが、10 代から20 代前半にかけて小説ばかり読んでいて、その頃に夢中になっていた作家でした。私が何だかわからないけれど妙に楽しそうに生活しているのは(笑)、晴朗感にあふれ、生きる歓びに満ちた、この方の作品を読んだことも大きかったのではないかと思います。今、書店に並んでいる小説の多くを、おそらく、私は楽しめないと思いますので、若い時期に辻邦生という作家に出会えたのは幸運でした。
「ただ自分のなかにいる人間を信じようと思う。いまは、各人がそうして崩れそうになる理想を守るしかないんじゃないかね。声高く叫ぶ時代じゃない。みんながじっと耐えて、冬の雪に草花が地面の下で芽を大事に守るように、人間という理想を守る時代なのだと思うよ。」
という登場人物のせりふが、ふと、目にとまったりしています。

2014年11月4日火曜日

高野 文子 「ドミトリーともきんす」

決して否定をするつもりはないのですが、活字の本だけでも読み切れないくらい積んであるので、漫画を読むことはあまりなく、本棚にあるのは「ブラックジャック」、「火の鳥」、「ブッダ」のような手塚治虫の代表作と、ラズウェル細木さんのジャズ漫画(これは私の中ではどちらかというとジャズ本というくくりなのですが)くらいなのです。そんな私が、かつて、買おうかなあ、と迷った本が、ちくま文庫から出ている「るきさん」でした。迷っているうちに3回くらい書店で通読してしまい、結局買わないままになってしまったのですが。

否定するつもりはない、と書いた舌の根も乾かないうちから文句をいってしまうと(笑)、発表される主要な媒体が週刊誌であるせいか、 短いスパンに一気呵成に展開する勢いと、競合する多くの作品のなかでキャラを際立たせる個性の強さが、普段、コマ割りのない止まった絵ばかり見ていて(笑)、読むものとしては地味でしみじみとした私小説が好きな私にしては、ちょっと胃もたれがおきてしまうなあ、という感じを一般のマンガにもっていた中、そんな先入観に反して、騒々しくない、何気なくそこはかとなく面白い感じが新鮮だったのでした。

結局購入しなかった(いや、これから慌てて買おうかと思っていますが(笑))作品について熱弁をふるってもしょうがないのですが、そういうわけで、マンガを読まない私ですら高野文子という名前は印象に残っていたのでした。その著者の 12 年ぶりという最新作が、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹という、科学者の書いた文章への道案内だということで、出張先の書店で手にとってみたらすっかり感銘を受け、サイン本があったのを臆面もなく購入してしまいました(笑)

ご自身のあとがきが名文で、書店でお読みいただければここでお話しすることは何もなくなってしまうのですが(笑)、とりあえず要約すると、漠然と《実用的》なマンガっていうのはできないものか、と思っていた作者が、科学者が書いた随筆や一般向けの文章に《乾いた涼しい風が吹いてくる読後感》を覚えて自然科学の本を気に入り、それらの本を紹介しようと思ったとのことです(《 》 は、あとがきにある作者自身の言葉の抜粋です)。

昔からの科学者の中には文章が達者な方がかなりいらっしゃって、文章の題材の多くは研究に関することで、さらに観察癖が身についているので、べったりと書き手の心や感情を書くよりは距離を取れるのかもしれません。

母(とも子さん)と小さい娘さん(きん子さん)がやっている下宿屋さん「ともきんす」(もちろん、ガモフの「不思議の国のトムキンス」に由来しています)に学生時代の前述の4人が住んでいて、おりにふれて誰かが話に来る、という空想、という設定で、印象的な場面が浮かびあがるようになっています。

読んだことがあって、ああ、あそこがヒントだな、とわかるものも少しはあり、おそらく、それ以外のところでも、紹介する文章からインスピレーションを得た断片が散りばめられているのだと思います。素人の私がこんなことをいうのも僭越ですが、単にストーリーを追うための絵ではない、一コマ一コマの静けさと優しさがとても印象的です。よくしつらえた、聞き上手な空間で、窮屈ではなく空想を遊ばせながらも、最後は主人公たちのこころのありように読者の関心を導いてゆきます。《まずは、絵を、気持ちを込めずに描くけいこをしました》と、この作品に合わせるために自分の画法をつくりなおす、というほどの手間をかけて、《今回は、自分の思いを見えないところに仕舞った》そうですが、その「仕舞われた」思いは、見えないところで、とてもしっかりと、この本の世界を支えています。

喫茶店やカフェとか、美容室とか、歯医者さんの待合室とかのマガジンラックに、この本が収まっているのを想像すると、ちょっと愉快になってきます。もちろん、学校にも置いてほしいですね。 図書室の本棚にきっちり収納するのではなく、教室の、ちょっとしたときに誰かが何気なく手を伸ばして眺めることの出来る場所がよいと思います。

2014年10月4日土曜日

ジョセフ・メイザー「数学記号の誕生」

著者の名前を初めて見たのは、ダンツィクの「数は科学の言葉」の編者としてでした。同じ本にバリー・メイザーも一文を寄せていたので、関係があるのかなあ、と思っていたのですが、どうやら、兄弟のようで、この賢兄賢弟の弟である著者は、数学史の啓蒙的な著作に熱心なようです。大学を退職して名誉教授になっていると思われる現在の境遇を「学識ある人々のあいだにいる数学ジャーナリスト」と書いています。

この時期に翻訳が出版されていたら、もしかすると、この本1冊で、そのときの何冊分か以上に、関心のあったことをカバーできたかもしれません。

原題は "Enlightening symbols - A Short  History of Mathematical Notation and its Hidden Powers"というそうです。ニュアンスを残して邦題をつけるのは至難の業でしょうから、責めるつもりは毛頭ないのですが、やはり、もとの題名のほうが主旨を端的に表しているように思います。

数学において、「記号」はどういう役割を果たしたのか、そして、果たしているのかを紹介し、著者なりの視点で考察を行っています。第1部は数の記号について、第2部は代数の記号について、第3部は心理的、認知的な側面から記号の数学的思考への影響について書かれる、という3部構成になっています。

個人的に興味があり、しかも、実際に読んで面白かったのは2部と3部でした。数については、多くの人が日常的に使っていて手応えがあるせいか、その歴史についても多くの興味深い本がすでにあったのですが、代数記号についてのまとまった本はそれほど多くはないうえ、大体が個々の記号の変遷の分析にとどまっていた印象があります。それだけでも面白いのですが、例えば、鍬や鋤の形がどう変わったか、というような農機具の形の変遷だけを見るようなもので、そう変わったことでこのように効率がアップした、とか、生産性に寄与した、ということを知るほうが、見方は遥かに深まると思います。第2部では、記号を使うことで何が変わったのかが、数学者である著者の感覚により、手応えをもって伝わってきます。

第3部の心理的、認知的な視点からの記号への考察をこの手の啓蒙書で行うのは、関係する定説が確立しているようには見えない現段階では、かなり挑戦的なことだろうと思います。しかし、この流れで読んできたら、著者としてはやはりそれに触れずにはいられないのもよくわかります。

簡潔、平易を旨とし、専門的になりすぎないように配慮されています(個人的には、もう少し突っ込んだ紹介や分析があったらなあ、というところもあったのですが(笑))。その匙加減が絶妙で、これだけの話題なのに大部な本にならずにすんでいて、通して読むのにも苦痛ではありません。「数学ジャーナリスト」を自称する著者の面目躍如といったところでしょうか。

巻末の謝辞に、兄のバリー・メイザーだけでなく、スタニラス・ドゥアンヌ、ジョージ・レイコフ、スティーブン・ピンカー、イアン・スチュアートらの名前が並んでいて、豪華な顔ぶれだなあ、と、思わず感心してしまいました。

2014年9月21日日曜日

華厳の斜め読み

ちょっとした理由があって、華厳のことを知りたいなあ、と思い立ち、ここ半年くらい関係の本を眺めていました。もちろん、本格的な仏典や論文ではなく、啓蒙書の類なのですが、それでもなかなか歯がたちません。例の如く、目についたものから買い漁って積読してあった、こんな本こんな本こんな本に手をつけては跳ね返されています(笑) そもそも唯識についての理解が浅いからなあ、と、そちらの積読本も持ってきたら、それだけで膨大になってしまって、これは無理、と、身の程知らずであったことを悟って撤退しそうな形勢です(笑)

山田先生の御本の緒言に、
この本をお読みになって華厳思想に本格的に興味を持たれた方がいらしたならば、「華厳教学の綱要書である法蔵の「華厳五教章」を熟読されてはいかがでしょうか」と、さしあたり勧めるであろう、そしてその舌の根も乾かぬうちに、「卓れた注釈や翻訳もありますが、あの厄介なテキストを咀嚼するにはよほど丈夫な顎が要るということを覚悟してくださいね」と、あわてて付言するだろう。煩瑣な議論にしばしば挫折しそうになりながら辞典と首っ引きで散々骨を折って読み通し、挙句の果てになにを云っていたのか皆目見当がつかなかったというのでは寂しすぎる

・・・と、書いてあったのですが、この箇所を読む前に、こちらの「華厳五教章」も買って積んであったのでした(泣)

とりあえず、無駄遣いする前に、積んである本をちゃんと読もう、というのが当面の教訓のようです(笑)

守る自信はまったくありませんが(笑)

2014年8月20日水曜日

ぐだぐだに過ごす

先週末は実家で過ごし、再び越谷の自宅に戻っていますが、気づかぬうちに疲労が蓄積していたのか、気づかぬうちに年老いているのか(笑)、 その間ずっと我ながら驚くほどすぐに眠くなり、まるで1日 18 時間睡眠するアルマジロのような(笑)生活を送っています。夏休みに入ったら、研究室や自宅の整理や出張の計画と手続きをしなければ、と、このブログにも書いていたのですが、何も手をつけないまま、半ばを迎えようとしています。

気がつけば大量のCDを買い込んでいたので、ずっと音楽を聴きながらぐだぐだ過ごしていました。何かを読んでいないと目が寂しい(笑)反面、関係ない本に集中すると聴くほうがおろそかになるので、音楽関係の書籍を読むことが多いのですが、おあつらえ向きに、数日前に書店でこの本を手にとってぱらぱら眺めたらあまりに面白くて購入してあったので、CDをかけながら読みふけっていました。ジャズに関することは勿論、背景にある政治、経済、風俗に関しても広く深く調べ上げてあるのに、衒学的でも堅苦しくもなく、明解な筋道でジャズの歴史が語られています。その昔、新潮文庫の「ジャズ - ベストレコード・コレクション」を頼りにアルバムを集めはじめたので、著者に関しては馴染みがあるつもりだったのですが、その頃には、さすがに大家となられて見ることができなかった、茶目っ気たっぷりなユーモア溢れる口調も新鮮で、魅力的でした。

さわりだけしか知らなかったアーリー・ジャズににわかに興味が湧き出して、ジェリー・ロール・モートンやビックス・バイダーベックを聴いてみたいなあ、という気になったのですが、さすがにその辺のアルバムは持っていないので、替わりに、このアルバムを聴いていました。そういえば、この作品を買う気になったのは、少し前にこの本で紹介されていたからなのですが、そこに書いてあるような、ライ・クーダーの意図を理解するうえで大切な、ジャズ創成期における中南米音楽の影響について、日本人が知っているのは、結局は、油井正一という稀有なジャズ評論家のおかげなのだろうなあ、と、改めて思いました。

あっさりと話が変わってしまいますが、久しぶりにテレビを見ていたら、「ミラクル9」の中の、ゆるキャラが3つ出てきてその都道府県をあてる、というクイズの問題の最初のゆるキャラで、鶴田町、という名前が出てきて、おや、と思ったら、3つ目に弘前の「たか丸くん」が登場して、答えは「青森県」でした。対抗するチームへの問題の1つめのゆるキャラについて、小松菜、という言葉が出てきて、おや、と、思ったら、3つ目は草加せんべいのキャラクターで、答えは「埼玉県」でした。随分な偶然だなあ、と、驚きました。

2014年7月16日水曜日

相変わらずひねくれたヘタレっぷり

こんな本が届きました。

弘前大学出版会設立 10 周年記念出版として、107 名の教員の座右の銘や心に残る言葉と、それにまつわるエッセイを掲載した本で、不肖ニシザワも拙文を寄せております。

当然、人格と教養を見込まれたから、ということではなく、昨年度の初めころ、当時の学部長先生が数学講座の所属で、別の用事があって伺ったとき、そういえば、こんな原稿書いてくれる人を出版会の人が探してるんだけど、どう? と、聞かれて、ああ、いいですよ、と申し上げると、それなら知らせておくから、後でニシザワさんのところに出版会から連絡があると思うから、という調子で頼まれたという、手近な人で間に合わせようという縁故指名だったのでした(笑)

ほどなく出版会からも依頼があり、それから1週間ほど経ったころ、ふと思い浮かんだ、落ち込んだ時の特効薬であるこの本の一節を引用することにし、ブログを書くのと同じ調子で 30 分ほどで 400 字くらいの駄文を書き上げました。さすがにもう少し検討した方がよいか、と、寝かせておいたのですが、結局他のことでばたばたしているうちに手付かずのまま放置されることになり、6月頃、締切り 5日前にそのまま提出しました。あとは、2月頃に校正刷が来て、恥ずかしい漢字の間違いをしていたのに気づいてあぶないところで訂正し、すでに移動することが決まっていたので、あのう、4月からいなくなるんですけどどうしましょう? と確認した、というのがこの原稿に関わった全てで、改めて本に収まっているのを眺めると、今さらながらいい加減で申し訳ないような気もします。

ぱらぱらと眺めてみると、多くの先生方は、高い志を持とう、挑戦しよう、と学生さんを鼓舞する文章をお書きになられていて、そんな中、

君のおぼえた小さな技術をいつくしみ、その中にやすらえ。

なんて言葉を座右の銘としてあげてしまうあたり、相変わらず、自然体にしてひねくれたヘタレっぷりだなあ、と苦笑してしまいました。

あ、勿論、マルクス・アウレリウス皇帝は、自らの成すべきことを無私無欲に、無心に行おう、といっているのであって、ヘタレなのは私ですので、と、言わずもがなの補足をしておきますが。

そんな、ナチュラル・ボーン・ヘタレな私が、挑戦なのか逃避なのか本人もわからないまま(笑)、気がつけば弘前を離れていました。ご覧のように、新しい場所での新しいうろうろ、ばたばたが始まり、自分の成すべきことをいつくしみ、やすらぎを見出せるようになるのはいつになるのやら、という感じです。

それでも、ときどきは『自省録』を眺め、そうだよね、と、空を見上げて暮らしていこう、と思ってはいるのですが。

2014年5月12日月曜日

抜書き

「意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の目にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の大分というものは堪忍と辛抱の中にある、(中略)、 これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛抱、-人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」 (山本周五郎 『樅の木は残った』)

2014年3月28日金曜日

自慢にもならない本棚を引っ掻き回す

ようやく新しく移った研究室の書棚に本が並びはじめましたが、ついつい、中身を覗いてしまうので、なかなか作業が進捗しません(笑)

以前、私の研究室の本棚を眺めて、宝の山じゃないですか、と、言って下さった方もいたのですが、数学書の類は、重要なものは長い目で見ると大体再版されるので、古本屋で探し当てて高い値段で購入しても、後に新たに綺麗で廉価なものが出回って悔しい思いをすることがしばしばです。この本は、日本評論社の数学叢書版を古本屋で購入した後すぐにちくま学芸文庫で再版されましたし、この本も、結構な値段で古本屋で購入した直後に復刊されました。以前、洋書の蔵書で自慢していたのは、Baxter の "Exactly Solved Models in Statistical Mechanics"  と、Chihara の "An Introduction to Orthogonal Polynomials" だったのですが、どちらも Dover で出版されたうえ、 さらに、Baxter の本にいたっては、無料でダウンロードできるようになっていました。もちろん、数学全体のためにはそのほうが望ましいので、私が自慢できるかどうかは問題ではないのですが(笑)、もし、再発されるのがわかっていたら、あんなに散財して買う必要はなかったのになあ、と、恨めしく思うこともあります。

それでも、私の場合、大体の本はざっと斜め読みして放り出しておいて、必要になったり、思い出したりしたときにおもむろに読み直すことが多いのと、職場の図書館に数学書が大量にある、というわけにはなかなかいかない環境なので、これから入手できなくなるのではないか、という不安がつきまとって、ついつい読めもしない本まで買ってしまいます。あと、それから、独り者で、家計のことを考えなくなっている、という、悪しき原因もあります(笑)

そんなわけで、そのうち、自慢できなくなるかもしれませんので、廉価で再発される前に、ちょっと見せびらかしておくことにします(笑)

まず、特殊関数関係の本です。


ミラー著(折原訳)の「リー理論と特殊関数」













ホックシタット(大槻、岡崎訳)の「特殊関数」、ただし、これは原著が入手しやすいので、それほど日本語訳が必要ではないかもしれませんね。
これは、以前は手に入りにくかったのですが、最近はどうなのでしょうか?









次に、専門とは関係ない数学の本から。


以前、お知り合いの方に見せていただいて、面白かったのですが、なかなか入手することができなかった本です。昨年くらいに、ようやく見つけたので購入しました。線型代数の自然・社会科学への応用に関する本は、他にも、こんな本 や こんな本 もありますが、この本は特に充実しているようです。










もはや、数論関係者に見せびらかすこと以外に使いみちがなくなってしまいました(爆)












次は、数理哲学や数学史の本で、最近復刊されていなそうなものです。


ラカトシュ「証明と論駁」。古本屋に出ていたのを衝動買いしてしまいました。これくらいの本はコンスタントに流通していてほしいという気持ちと、結構な値段だったので、これで安価な復刊をされたら浮かばれないという気持ちが混ざり合って複雑です(笑)










ラッセル「数理哲学序説」。この本も 20 年近く復刊されていないのですね。
オスカー・ベッカー「数学的思考」。これも品切れですね。こちらはまだ流通しているみたいですが。









ジョーゼフ「非ヨーロッパ起源の数学」。しばらく前に翻訳が出たのは知っていたので、読もうと思って探したら、いつの間にか品切れになっていて、こんな評判がよい本なのに、と、驚きました。もしかすると、ブルーバックスにするには重すぎたのかもしれません。そういえば、少し前に、AMS の Notices に書評が出ていました。










最初に書いたように、洋書ではほとんど希少な本はなくなっていますが・・・。


Noerlund の差分方程式の本です。これは、AMS Chelsea で品切れ(絶版?)になっていて、欲しかったのになかなか見つけることができませんでした。数年前に、偶然、古本屋で見つけました。






最近、こちらも古本屋で見つけました。やはり結構な値段でしたので、安価で復刊されたりするとやりきれない気持ちになりそうです(笑)




これは9冊揃っています、ということで(笑)












研究室に本が並んでいるのを見て学生さんが感心しているときは、ふっふっふ、ダイガクのセンセイとはこういうものさ、と、悦にいった気持ちになるのですが、大抵、その後、すごいですねえ、これ、全部読んだんですか? と聞かれて、返答に困ることになります(笑)  

こんなことをしているので、本の収納がなかなか進みません(笑)