著者の名前を初めて見たのは、ダンツィクの「数は科学の言葉」の編者としてでした。同じ本にバリー・メイザーも一文を寄せていたので、関係があるのかなあ、と思っていたのですが、どうやら、兄弟のようで、この賢兄賢弟の弟である著者は、数学史の啓蒙的な著作に熱心なようです。大学を退職して名誉教授になっていると思われる現在の境遇を「学識ある人々のあいだにいる数学ジャーナリスト」と書いています。
この時期に翻訳が出版されていたら、もしかすると、この本1冊で、そのときの何冊分か以上に、関心のあったことをカバーできたかもしれません。
原題は "Enlightening symbols - A Short History of Mathematical Notation and its Hidden Powers"というそうです。ニュアンスを残して邦題をつけるのは至難の業でしょうから、責めるつもりは毛頭ないのですが、やはり、もとの題名のほうが主旨を端的に表しているように思います。
数学において、「記号」はどういう役割を果たしたのか、そして、果たしているのかを紹介し、著者なりの視点で考察を行っています。第1部は数の記号について、第2部は代数の記号について、第3部は心理的、認知的な側面から記号の数学的思考への影響について書かれる、という3部構成になっています。
個人的に興味があり、しかも、実際に読んで面白かったのは2部と3部でした。数については、多くの人が日常的に使っていて手応えがあるせいか、その歴史についても多くの興味深い本がすでにあったのですが、代数記号についてのまとまった本はそれほど多くはないうえ、大体が個々の記号の変遷の分析にとどまっていた印象があります。それだけでも面白いのですが、例えば、鍬や鋤の形がどう変わったか、というような農機具の形の変遷だけを見るようなもので、そう変わったことでこのように効率がアップした、とか、生産性に寄与した、ということを知るほうが、見方は遥かに深まると思います。第2部では、記号を使うことで何が変わったのかが、数学者である著者の感覚により、手応えをもって伝わってきます。
第3部の心理的、認知的な視点からの記号への考察をこの手の啓蒙書で行うのは、関係する定説が確立しているようには見えない現段階では、かなり挑戦的なことだろうと思います。しかし、この流れで読んできたら、著者としてはやはりそれに触れずにはいられないのもよくわかります。
簡潔、平易を旨とし、専門的になりすぎないように配慮されています(個人的には、もう少し突っ込んだ紹介や分析があったらなあ、というところもあったのですが(笑))。その匙加減が絶妙で、これだけの話題なのに大部な本にならずにすんでいて、通して読むのにも苦痛ではありません。「数学ジャーナリスト」を自称する著者の面目躍如といったところでしょうか。
巻末の謝辞に、兄のバリー・メイザーだけでなく、スタニラス・ドゥアンヌ、ジョージ・レイコフ、スティーブン・ピンカー、イアン・スチュアートらの名前が並んでいて、豪華な顔ぶれだなあ、と、思わず感心してしまいました。