2015年4月13日月曜日

庄野潤三 「鳥の水浴び」

久しぶりに庄野潤三の小説が文庫化されたので、早速購入しました。

個人的には、著者の、特に後期の作品のファンなので、今回も、うーん、やはり、自分にはこういう気持ちが足りないのだ、こういう風に生活しなければなあ、と、思うのですが。

もう、何度もこの方の小説の感想をブログに書いたので、ほとんど、同じようなことしか書けません。そのキャリアの初期、「プールサイド小景」、「静物」のような作品で、平凡な家庭生活のなかに潜む不安を整然とした文体で書いていた著者が、「夕べの雲」あたりから、ひたすらに平和で幸福な家庭の日常を、穏やかな筆致で描くようになってゆきます。徐々に、1年の明け暮れを一つの作品とする創作のペースができてゆき、毎日の暮らしを書き継ぐうちに、著者夫婦と子供たちの一家五人の生活から、子供たちが結婚し、それぞれ一家を構えて、著者たちは夫婦2人暮らしとなり、孫ができ、その孫も結婚をして、ひ孫ができ、・・ という長い長い時間のこの家族の年代記が形作られてゆきます。

「鳥の水浴び」は、ちょうど、長女の息子さんが結婚する1年間の、著者夫婦の暮らしを描いた作品です。特別なものや、慌ただしさや苛立ちや、というものは一切現れません。著者夫婦は、毎日、庭にやってくる小鳥を見つめ、花が咲くのを喜び、著者は散歩に出かけ、奥様はピアノのおけいこに行き、夕食後には著者がハーモニカを吹いて奥様ががそれに合わせて歌う、ときどき娘・息子の一家が訪ねてきたり、ご近所の人たちと語らったりして、大きなイベントは、毎年恒例の大阪へのお墓参りと、時々の宝塚観劇、という、至っておだやかな1年間が描かれています。

作品を通じて、家族の道行きに付き合ってきたつもりになっているので、あの娘さんのお子さんが結婚した時期のことなのか、と、思って、著者の長女が結婚する直前の時期を描いた「絵合わせ」という作品も読み返してみました。今更ながら気づいたのですが、そのころは家族をモデルにしながらも、登場人物の名前は変えてあったりして、「小説」として、ある種の構成は行われていたのでした。ところが、今回の「鳥の水浴び」に至るまでのあいだ、ある意味、より無造作になっていて、家族やご近所の人たちは、おそらく本名で(?)登場するようになるし、子供や孫から来た手紙は抜き書きのように引用されるしで、一見、プロットの構成に意を用いているようには見えなくなります。雑誌に連載されたから、ということもあるのかもしれませんが、登場人物の説明なども繰り返しが多くなっていて、文章も、心の襞を表そうと技巧を凝らすのではなく、暮らしの何気ない出来事をあっさりと描写しては、「よかった」、「うれしい」、「おいしかった」、「ありがとう」といって締めくくる、というパターンが頻出しています。でも、なぜか、その「うれしさ」、「ありがたさ」は、細々と説明される以上に、確かな重みをもって伝わってきます。 

庭の花を愛で、小鳥を慈しむ明け暮れでも、時間は確かに流れています。いつも、畑で育てた薔薇を持ってきてくれた「清水さんの奥さん」はお亡くなりになってしまい、著者の奥様の作った「かきまぜ」(まぜずし)を喜んでいた清水さんの旦那さんがその畑を引き継いでいます。散歩のときによく出会った巨人軍のピッチングコーチだった「藤城さん」は、この年は韓国のプロ野球チームのコーチになっています。小学生の頃、著者の奥様と一緒にピアノのお稽古に通っていた「有美ちゃん」は、中学に入り、部活が忙しくなって、おけいこをやめてしまっています。著者の家族でも、以前の作品に小さな子供として登場していたお孫さんたちが成長していることに、ふと、気づいたりします。

だから、この年に咲く花も、今日、庭に訪れる小鳥たちも、本当は、そのとき1度だけの貴重なもので、「繰り返し」と思うのは、何か(たぶん、大切なこと)を見過ごしているのでしょう。ことさらな技巧にこだわるのではなく、気に留めなければ忘れられて消えてしまうような日々の出来事から丹念に喜びを選り分け、幸福であろうとする強い意志によって形作られた暖かな記憶が、著者の作品なのだと思います。