2015年11月7日土曜日

青森の旅 (6) 青森市街を歩く

漠然と、今回、訪れておこうと思っていたメインの場所には行けたので、後は、青森駅近辺をぶらぶらしてみようかと思いました。まずは、シャトルバスを県立郷土館で降りてみました。

青森の自然や歴史について、予想以上に充実した展示を見ることができました。個人的に興味深かったのは歴史でした。弘前も歴史のある街というイメージだったのですが、その「歴史」は、だいたい、津軽氏が勃興する安土桃山後期から江戸くらいからになってしまい、そ れ以前の青森がどうなっていたか、あまり知らなかったことに気づきました。また、弘前では、どうしても、「津軽」からの視点でものを見てしまう傾向があり ます。

念のために説明しておきます(笑) 「青森=津軽」というイメージがあるかもしれませんが、実は、八戸や下北のほうは、江戸時代までは南部の領地でした。そして、歴史的ないきさつから、「津軽」と「南部」は非常に仲が悪く、江戸時代には、南部の侍が津軽藩の行列に切り込もうとしたという事件まで起きています。さすがに、今の若い人たちにとっては、「青森県」という括りが定着しているのですが、気分としては、八戸辺りは岩手方面との結びつきは強く残っているようです。

さらに、津軽の中でも地域的な温度差があり、津軽氏の祖である津軽(大浦)為信は、弘前では英雄ですが、それは、周辺の諸豪族を打ち平らげて国を統一したからで、それらの豪族の本拠地であった地域での評判は微妙なときもあるようです。弘前から距離をとった場所で見ると、何となく、その辺の感じもうかがえます。

今回、初めて知ったのが、浪岡城には、南北朝時代の親房、顕家の流れをくむ浪岡北畠氏がいたという、結構、れっきとした歴史があったのだということで、弘前に住んでいたころ、青森空港へのバスの行き来に通過するときに、「中世の館」の看板をみても、どうせこの辺の大したことない豪族がいたんだろ、的なことしか思っていなかった無知を恥じました。機会があったら、浪岡城も訪れてみようと思います・・・、と、行きたい場所がかえって増えて帰京することになりそうですが(笑)

郷土館を出て、善知鳥神社に立ち寄りました・・・、と書いて、読めますでしょうか(笑)、正解は「うとうじんじゃ」です。青森で最も古い神社で、創建はいつなのかわからないほどで、坂上田村麻呂によって再建されたとされています。棟方志功はここで結婚式を挙げたそうです。訪れたのが、ちょうと七五三の時期で、ブレザー姿の男の子、着物姿の女の子をよく見かけました。



当初の予定では、この辺までを昼過ぎに見学して、駅の近くで海鮮系の昼食をとるつもりだったのですが、あちこちで時間をかけてしまったので、14:30 くらいになってしまい、もう、がっつり食べる雰囲気ではなくなってしまったよなあ、と予定変更して、アスパムに行くことにしました。





せっかくなので、最上階のレストランに行ってみました。下の野外で、B級グルメを屋台で出すイベントをしていたせいか、お客さんが、私1人だけで、落ち着かない雰囲気ではあったのですが(笑)、さすがに、海を見渡す眺めは最高です。






まだ、時間があったので、記念館になっている青函連絡船「八甲田丸」にも行ってみることにしました。








青函連絡船は昭和 63 年に運航を停止したので、私は、実際に乗ったことのある最後の世代なのではないかと思います(笑) 母方の実家が北海道だったので、何度か利用しましたし、特に、高校1年のとき、初めての一人旅で乗船したときのことは鮮明に覚えています。

ちょっとがっかりしたのは、昔の風物を模したジオラマが展示されていて、以前の客席が残っているスペースが少なかったことです。連絡船の中に座敷席があって、そこに寝そべって窓から海を見ていた記憶があるので、思い入れが強い箇所だったのでした。以前に訪れた函館にあった摩周丸のほうはその部分が残っていて感慨に浸ることができたので期待をしていたのですが。

ジオラマの展示がされていた客室のあとのスペースを抜け、操舵室を通り抜けて、これで終わりならば少し味気ないなあ、と思ったら、順路が下に続いていました。青函連絡船は貨車をそのまま積めるようになっていたのですが、その格納庫に、いくつかの車両があるのはなかなか圧巻でした。次の順路で、エンジンルームも見ることができました。最初の客席の失望を補うことができました(笑)

八甲田丸を出ると、ちょうどよい時間だったので、青森市街の観光を終え、新青森に向かうことにしました。