2014年11月7日金曜日

月を見ながら

20:00 頃に大学を出て、橋の上で空を仰ぐと、ちょうど雲が風で流れ、美しい満月が現れたところでした。 周りにいた学生さんのグループが思わず、わあ、きれい、と言い合っていました。

そのまま、ときどき、空を見上げて月を眺めながら帰宅しました。
世の中のうきをも知らですむ月のかげは我が身の心地こそすれ 
いかにわれ清く曇らぬ身となりて心の月の影を見るべき
なんていえるとカッコいいのですけどね(ちなみにふたつとも西行法師の歌です)。

そういえば、大好きな作家である小山清の「聖アンデルセン」の中にも月が出てきたなあ、と、思い出しました。コペンハーゲンに出て文筆で身を立てようとしている若きアンデルセンが、故郷の母親に宛てた手紙、という形式での短編です。

お母さんはいま編物をお片づけになりましたね。えゝ、月がをしえてくれたのですよ。古い馴染みの、さうして気の於けない友達の月です。私がこの壁の傾斜してゐる屋根裏部屋に住むのも古いことですね。(中略) 私の体にはコペンハーゲンの暮らしが、さうしてこの屋根裏の匂ひがしみついてしまつてゐるでせう。いま窓の外に在っていゝ眼つきで私を見て微笑ってゐる月とも、さうです。私もはじめは私の窓辺を訪れてくれたこの友達に対して、よそよそしくしてゐましたが、毎夜のやうに訪れてきて私を身護り顔な様子に気づくにつれて、段々慕しさが募つてゆきました。いつか私は彼に頼ってゐました。さうして果はこの友達に向かつて持ち前の稚さをさらけ出してしまひました。私は月にそつくり打明けて話しました。(中略) 寄辺ない少年だつた私がいろんな人の世話になつて、どうやらこゝまではやつて来たといふことを、その間の嬉しかつたこと悲しかつたことを、さうして私は今も行き悩んでいるということを、慰めが欲しいのだといふことを、みんな打明けて話してしまひました。私の顔をみつめてゐた月は云ひました。「君はよく打明けてくれたね。人といふものはいつでも自分の心を語れるやうでなくては駄目だと思ふな。僕に対して心を開いて見せてくれたといふことだけで君はもう一歩をふみ出したのだよ。君の生涯のうつたうしい一時期に、さうしておそらくは大事な一時期に君と近附きになれたのも、これはたうの昔に極められてゐたことだと僕は自分に云ひきかせてゐる。おそらく僕は性急な慰め手ではないかも知れない。君の涙をすぐ拭つてやるなどといふことは、僕などには出来ないだらう。僕は君を永い眼で見てゐるよ。」 私は月を見つめ、一層彼に心を寄せました。さうして私達は友達になつたのです。いまでは私達の友情は落ち着いた確かりしたものになつてゐます。はじめの頃のやうに無性に話あつたりはしませんが。私は月が傍にゐてくれるといふことだけですべてを堪へる気になるのです。でも時には私も心を弱くして彼に問ひかけます。「ごらん、いまだに僕はこんな調子だ。君は僕を疎まないか。」 すると月は私がそんな眼つきをする度に、誠実の籠つた重い口調で云つてくれます。「疎まない。僕は君を永い眼で見てゐるのだよ。」

いいですね。写していると心が休まるのですが、このままだと一編全部を書き写してしまいそうですので、この辺でやめておきます(笑)