2014年6月13日金曜日

研究授業を参観する

先週と今週で、再び、西は清瀬から東は習志野まで、武蔵野線沿線を行き来して、担当になっている実習校で小学校実習している学生さん達の研究授業(船橋や習志野のほうでは、精錬授業、と呼ぶことを初めて知りました(笑))を参観してきました。

担当したのが数学専修の学生さんが多かったのと、私が数学の教員なので実習校の方々に気を使っていただいたのとで、今回担当した5人の学生さんの授業のうちの4つが算数だったので、興味深く参観することができました。

子どもとのやりとりがどうか、とか、時間配分がどうか、とか、そういうことはよくわからないので、やはり、関心は数学に関してになるのですが、改めて感じたのは、明晰である、ということは、難しいのだなあ、ということでした。

これは今回だけに限らないのですが、学ぼうとする事項があったとき、「問題が解決したとはどういう形になったときか」、「問題に取り組み始めたときはどういう状況なのか」、「現時点で、どのような手段を用いることができるのか」 ということを、言葉で、図や教具などのシェマで、数式で、明確にしきれていないので、「手段をどのように組み合わせればよいか」、「手段を組み合わせるとどのくらいの範囲の問題が解決できるのか」ということをはっきりと実感させられないのではないか、と見えることがたびたびあるのです。

こういうことは、「数学の分かり方」の深さの問題としか思えないのですが、どうも、それが通じていないような気がします。自分は、この問題は当たり前にすらすら解けているから、「わかって」いる。問題は「教え方」「説明の方法」なのだ、と考える学生さんも少なからず見受けられるような気がしてならないのです。

いつも行き来しているのでスタートとゴールの地点の間の道順はわかっている、みんなその経路だけ行き来すればいいんだ、というだけで案内して、全体の地図が頭に入っていないならば、連れて行る人がひとつ間違った路地を曲がってしまったとき、その先が行き止まりだ、とか、道が湾曲していてずっと離れたところに出てしまう、ということがわからないままで、コースを見失った人を連れ戻したり、もう一度予定した道に出るよう誘導したりすることはできなくなってしまいます。それでは、歩くのが速い、とか、遠くまで歩ける、応対が上手い、といっても、道案内はできないんじゃないの、と、思ってしまうわけです。

教育学部で数学を教えてみると、理想的には、初等教育に携わる方のほうが、形式や構造に対する感覚を研ぎ澄ます必要があるのではないか、という気がすることがあります。もちろん、小学生に論理や写像や代数系を教えろ、ということではなく、教える側が、今、自分たちがどこにいて、これから、どのように道筋を与えればよいのか、ということを明らかにするための視点を得るためにです。

とはいうものの、小学校の先生になる人全員に現代数学を教えるわけにもいかないですし、どころか、数学専修の講義でも代数系の話をするとあっという間に受講者が激減する(笑)、という状況で、力んでもしょうがないのかなあ、と思わないでもないのですが。

以前もツイッターに引用したことがありますが、ポリヤの本の中に、教員のための数学について、「数学科が出してくれるステーキはかたくて噛めないし、教員養成学校が出してくれるスープは肉が全然なくて味がうすい」と書いてあったのを再び思い出しました。

これからも、相も変わらず、学生さん達の口に、カッチカチのステーキを無理矢理ねじ込んで毎日を過ごすことになるのかなあ、と、嘆息したりもします。

ともあれ、実習生の皆さんは、現場で、実際に教壇に立ったり、学校の活動に参加したりして、教師になるとはこういうことなんだ、ということについて、より具体的な感覚を抱くことができたと思います。もちろん、実習、というのは後ろで誰かに支えてもらいながら自転車に乗っているようなもので、これが終わったら即戦力、というわけにはいかないでしょうが、先生になる、ということを具体化してゆくために必要なものはより明確になったのではないでしょうか。実習校の先生方にはお世話になりました。