誕生日を迎えたついでに改めて自分のことを考えると、バブルの時代はスタイリッシュではなく、やれ成果主義だ数値目標だといわれたときにも全然目立たず、グローバル化の時代に半径2メートルの超ローカルな日常でうろうろして、コミュニケーション能力が喧しく問われている時代にコミュ障寸前、という調子で、よくもこれだけ時流に乗れないで生き残っているなあ、という驚きを禁じえません。ここ最近、諦めて居直ってきたきらいはあるのですが、別に、確信犯的に、とか、逆宣伝になるように、というつもりではなく、自然にそうなので、かえって性質が悪いかもしれません。ネットで見かける経済や求人系の記事などでは完全にNGな人材で、これでダイガクのセンセイにおさまっているのが見つかると、だから日本はダメなんだ、とか言われそうです(笑) 勿論、私だって、そういうキャッチフレーズでは拾い上げられない局面で、少しは役に立っている、というささやかな自負はありますが(笑)
若い人たちのお手本になるというキャラクターではないのですが、もし、今風の「求められる人間像」に乗り切れないで悩んでいる方がいるようでしたら、そんなにぴったりあわせなくても、運がよければ何とかなるよ、という例にはなるかもしれません。
そうはいうものの、このように年を経てくると、仕事の都合で、人との応対が少しは板についてきたのかな、というときもあります。ただ、それは単に、鈍感になった、とか、いつもと同じようにすればよい、と、慣れきって高をくくるようになった、というだけなのかも、と思わなくもありません。若いとき、びくびくしたり、緊張したりしたのは、今会っている人が大事なのだと肝に銘じていて、絶対に不愉快な思いをさせたくない、と必死だったからなので、その真剣さのほうが手馴れたなめらかさよりも誠実なのでは、という気もするのです。
全然威厳がないので(笑)、私を畏れ敬っている若い方は滅多にいないのですが、それでも、ときどき、緊張してしどろもどろになっている学生さんについ苛立って、あのさあ、要するに何が言いたいの? などと言ってしまって、よくないなあ、とは、思っているのですが(笑)