2014年5月30日金曜日

Zsófia Boros "En orta parte"

ナイロン弦のギターを聴いたり弾いたりしてきたのですが、本当に「クラシック」ギターが好きか?と問われたら、自信を持ってイエスとは言えないかも、と、いう気持ちもあります。クラシックギターの世界で、南米ものや、現代音楽や、ジャズやロックとのクロスオーバーや、少し前の、アンドリュー・ヨークやローラン・ディアンスのようなギタリスト達が作曲したポピュラー音楽のテイストの入ったレパートリーなどが流行りだしたときのような何らかの動きがあると、面白そうだなあ、と思うのですが、それらが定着して、2次使用、3次使用されはじめると、何だか飽き足らない気分がしてきてしまうのです。もしかしたら、クラシックのギタリスト達が、正確に、精妙に、と磨き上げるときに削り落とされてしまうもののほうが好きなのかもしれません。

このアルバムは、おそらく、ECMのニュー・シリーズでの最初のギターのアルバムだと思います。マンフレッド・アイヒャーがこのシリーズでクラシックギターのアルバムをプロデュースしたらどうなるのだろう、ということに興味があり、期待して聴きました。

ちょっと複雑な気分です。ブローウェルの「11月のある日」を縦糸に、ビセンテ・アミーゴやキケ・シネシやラルフ・タウナーといった、クラシックから飛び出したギター・ミュージックまでカバーした、柔軟かつ広いレパートリーのそこここに、奏者の感性の瑞々しさ、新鮮さが反映していて、出来としては申し分ないとは思います。力感やスピード感を見せびらかして勝負しようとしないのも好感が持てます。ただ、ヘンな言い方になるのですが、その「感性の新しさ」が「定番」の『新しさ』なのではないか、という気持ちが拭えないのですね。ちょっとヒネクレタ言い方をすると、ギターの(特にクラシック・ギター)のなかで、ある種のジャズ、フュージョン、ワールドミュージックからのレパートリーを清澄に味付けするとハイブリッドな異業種交流になる、というお約束があるような気がして、このアルバムは、まさにそのお約束そのものに見えてしまうのです。いっそのこと、ソルの作品を現代的解釈で演奏する、というような企画のほうが根本的な意味で斬新なのでは?と、揚げ足をとりたくなってしまったのです。

ただ、そう考えてから、ふと思いとどまりました。例えば、ラルフ・タウナーや、エグベルト・ジスモンチや、ビル・コナーズなどのような、それまでのジャズとも、クラシックとも違う、新しいタイプのギターミュージックのスタイルを打ちたて、それをハイセンスなものとする流れを生み出したもののひとつとして、紛れもなく ECM があり、そのインスピレーションの源は、マンフレッド・アイヒャーだったのでした。ですから、このアルバムも、安直な「ハイ・センス」にひかれたというのではなく、単に、ECMらしい、マンフレッド・アイヒャーらしい、ということなのかもしれません。

ECM ニューシリーズからのクラシックギターのアルバム、という視点メインで話をしてしまったのですが、先ほど少し触れたように、奏者の腕と感性は確かなようです。寡聞にしてこの方の名前を聞いたことがなかったのですが、これからの作品が楽しみです。アルバムのカバーフォトを見ると見目麗しい女性なのが逆にちょっと心配で、不思議なことに、クラシックでは、「美人演奏家」という括りでヘンな持ち上げられ方をされてしまうことがあるので、そういうことに巻き込まれないといいなあ、と、おせっかいながら思ったりもします。

ラルフ・タウナーの "Green and Golden" は、大好きな曲なので、ここでの演奏にも期待をしたのですが、本家との違いを出そうとしたのか、テンポを遅く設定してしまって、流麗な感じが抜けてしまったような気がします。